寝転んでは祈る

   寝転んでは祈る

 

 ズボンのポケットに確かな振動を感じて、彼はパソコンでの作業を中断した。スマホに手を伸ばしながら、他のLINEの通知は切ってあるから、この知らせが来たということは、間違いなく彼が期待しているメッセージを受けたのだということを考える。

 「あなたが説明で書かれている症状に私も思い当たる節があるのですか。」

 彼はメッセージが来たことを知らせるアイコンが立っているスレッドを長押しして、既読をつけないまま送られて来たメッセージの冒頭だけを読むと、そのままスマホの画面を閉じた。ふっと一つため息をつく。オフィスの時計を一瞥して、定時まで残り十五分足らずであることを確認すると、大きく伸びをした。だらだらと今日の作業の片づけを始めて良い時間だった。

 机の上に無造作に並べられた白いチップは音声記録用のメディアだ。それらをガサガサとかき集める。それぞれの表面には付箋が貼り付けてあり、名前と注文日、納期が赤字で書かれている。それらの下にはおおおよその音声ファイルの容量と文字起こしの作業がどの程度まで進んでいるかを示す数字が書き入れてあった。彼は必要以上の時間をかけて付箋に書かれてある内容をチェックし、今日の作業の進捗の度合いによって下の数字を書き換えていった。

 彼は文字起こしを専門で請け負う小さな会社のタイプライターだった。五年前にできたこの会社は、主に零細な雑誌の出版社を何社か得意先として、他には数は多くはないが、講演会の文字起こしのような単発の個人の依頼も請け負ってきた。社員は十人に満たない小さな会社だった。

 彼は今の仕事を悪くない仕事だと考えていた。そもそも記録された音声が存在するのは、その場に立ち会った人間が記録をしたという事実があるからで、そのことはその音声が記録されるに値する音声だという価値の担保になっていた。無論彼にとって価値のわからない音声の文字起こしに出会うことも少なくなかったが、依頼主にとってどんな側面に価値があるのか、依頼の時に音声ファイルと共に送られてくるごく簡単な説明文から想像を巡らせるのは、悪い想像ではなかった。

 全てのメディアの付箋を整理し終えて、もう一度メディアを並べ、一抹の満足感に浸ると、彼は席を立ってフロアの一番奥にある暗証番号付きのケースに納期ごとに分けてメディアを収納した。締めの作業をしつつ、頭は先ほどのメッセージのことについて考え始めていた。会社の中でも特に新しいアクシデントがあるわけでもなく、安全地帯から人のやり取りを聞き取り、終われば家に帰るという穏やかな日々の中で、このメッセージのやり取りはもはや彼の趣味と言ってもよかった。

                  

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 ここ十数年、ある症状に悩まされています。始めてこの症状を自覚したのは中学生の頃でした。学校では昼食を食堂で買い、それを教室まで持ってきて食べるのがいつものことだったのですが、その日、思春期特有の莫大な空腹を抱えて急ぎ足で教室に帰ってくると、ふと食べる気が失せたのです。詳細に言えば空腹が失せたわけではなく、食べたいという気持ちも消えたわけでもなかったのですが、異様に億劫な感じと退屈な感じに襲われて、食べるのをやめてしまって、ぼんやりと友人と話し込んでいました。

 友人にも勿論「食べないのか?」と言われるのですが、「まあ、いいんだ」とか曖昧なことを言って、自分でも整理できないこの状況を伝えられるはずもなく、自分でも気色悪くなり、そのまま弁当はカバンにしまって、もう食べ終わったかのように振舞いました。空腹はもちろん残っています。

 毎日ということはなかったのですが、断続的にこんなことが起こるようになってしまい、自分でもなんとか「食べるのが面倒くさい」とか言葉にできるようになった頃、なんとなく予想はできていたものの、不眠になりました。今度は眠るのが面倒くさくなったのです。自分の意思とは関係なく気絶するように眠るまで、延々とベッドの中でスマホをいじり続けるようになりました。そのまま朝になることももちろん、気絶しなければ、ありました。食事と睡眠がままならないのはなかなか体に応えて、今では強めの睡眠剤を飲んで意識を消すように眠りにつくようにしています。

 精神科に言っても明確な診断はでず、心療内科やカウンセリングにも行きましたが、どうもピンときません。医療とか心理学の外で自分のことを考えたいと思っているからかもしれません。これ以上救いを求めていくと、いつかスピリチュアル系に突入もしてしまいそうで、もうこの症状を治そうと思うことはやめにしました。

 私と同じ症状を経験したことがある人、いませんか?他人に話すときはいつも「欲望と怠惰が常にセットになってやってくる」と説明しています。あまり強く思い詰めているというわけでもないのですが、もしお仲間がいたら、この病について語り合ってみたいという思いがあります。

              

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 彼が誰でも自由に出入りすることができるオープンチャットにこのような文章を掲載して一年が経つ。今までに幾人かがチャットに入ってきて、彼に呼びかけた。

 相手が本当に彼と同じ症状に苦しんでいるのかはわからなかったし、それが事実であるかどうかがどこまで重要かどうかも彼にはわからなかった。もしかしたら数人は彼をからかうために冗談で創作して話しかけてきているかもしれなかった。でもそのやり取りの中で、彼は過去の彼の病がどんなものであったかを次第に思い出して、初めはごく短かった病の説明が今のようなボリュームになっていったのだったし、彼にとっては相手が嘘をついてきたとしても、自分の忘れ去られていた過去のことを思い出せたのなら、それはそれで愉快だった。

 彼が職場から家まで帰るのにはそれなりにまとまった時間がかかった。電車の乗り換えはなかったが、都心から離れた郊外にあるベッドタウンまで、急行に揺られて一時間ちょっとはかかる場所だった。彼はよく定額の音楽配信サービスのアプリが次々に推薦してくる流行りの音楽を聴きながら、車内で同じ症状の「患者」と連絡を交わすことが多かった。車両は空いていて、座席の一番はじに腰を下ろして、LINEを開いた。今回の「患者」には幼い子どもがいるらしかった。

 「食事と睡眠ときたら、性に関しても、ですよね?」

 彼は性行為については、特にややこしい問題を感じていなかったが、相手の話をとりあえず先に進めるために適当に同意とも取れそうな返事をして、その母親の語りを促した。

 「セックスって本当に面倒くさいんですよ。私にとってはまさに『子作り』というもので、それ以上でもそれ以下でもないんです。」

 「そうかもしれないですね。」

 彼はなぜか、行為の後に、「動いた、労働をした」というような意のことを言った後、相手から「こっちはそういうの無いから。」と、その内容のせいなのか、実際の口ぶり以上に彼の頭の中に冷たい温度を残していった言葉を思い返していた。

 「でも『子作り』のためのセックスなんて、人生の全てのセックスからしたらごくわずかの期間の、数少ないものじゃないです?そのとき以外は我慢をしているってことですか?」

 「我慢っていうか…無為にそこにいるって感じですよね。人によっては色々求める人もいるからそういうのは辛いけど。行為中はそこまで問題じゃないんです。」

 「他に問題があるってことですか?」

 「私、育児が全くだめなんです。」

彼は一瞬虚を突かれたような気持ちになった。急行電車は通過駅を容赦無くスピードそのままに走り去っていく。音が反射するからなのか、電車が走る音は駅を通過するとにより一層響いてくるような気がした。都心からやや離れて、車窓の様子も低い家屋が多くなってきた頃だった。

 「私がセックスがだめだったのって、育児が根本的にできない人間だということを本能が警告していたんじゃないかって思うくらい!」

 彼が見たことのないキャラクターが「やれやれ」と呆れているような仕草をしているスタンプが送られてきた。

 「お子さんは今何歳なんですか?」

 「2歳半です。」

 育児の経験がなくても、まだまだ親の手がかかる年齢だということは、彼もわかった。

 「どう考えても全部足りてないんです。自分でもわかる。でもだめなの。」

 彼女は、きちんとした食事を与えていないこと、服の洗濯をしていないこと、風呂にも入れないから、空腹を訴えるために泣きながら近寄ってくる子供はいつも異臭を伴って近づいてくること、彼女としてはそれも突っぱねるよりしょうがないこと、そのためみるみるうちにやせ細って

いることを彼に話した。

「自分の食事がめんどくさくてまともに摂れないのに、自分以外の存在にそれ以上のことを施せると思います?」

 彼は、それは自分のためじゃなくて子供のためだからこそやってあげられるっていうロジックも成り立つんじゃないの、という冷めた言葉を飲み込んだ。そもそも現実のことなのかどうかもわからないことに対して非難する気にもなれなかったので、「そうすると、あなたは日中どんなことをしているんですか?自分が食事を取るのも、寝るのも、育児をすることもしないとしたら、何をして過ごしているの?」と聞いた。

 「セックスです。」

 電車の走る音がクリアに彼の耳に飛び込んできたようだった。駅は通過していなかった。彼は彼女がその後に続きを話すだろうと思い、待った。

 「セックスして、ずっと祈っているんです。」

 彼はまだ待とうと思った。

 「私ね、このままやらないと子供死んじゃうと思うの。頭ではわかっているんだけど、でもできないの。」

 「はい。」

 「どうしたらちゃんと世話できるようになるのかずっと考えてた。セックスが楽しめるようになれば世話もできるかもしれないと思ったの。」

 冗談と言われれば、実に冗談らしかった。でもつまらない冗談として唾棄するにしては、彼女の発言の突拍子の無さと、あくまでチャット上でのやり取りであるということの軽薄さが妙にあっていたのか、不思議な存在感があった。

 「だからセックスをしながら祈ってるんです。相手は誰でもいいけど、目を瞑って、明日からどうか子供の世話ができますようにって。おかしいと思う?」

 彼女は全くもって夫と別の男性とも性行為をするようだった。彼は性行為の最中に何かを祈っているようなことを想像してみた。

 「まあ別に、ここの場で私の発言を信じてもらえなくてもそんなにダメージはないけどね。」

 「いえ、信じますよ。」

 言葉がなんとなく浮遊している感じで、信じますよなどと、普段なら言いそうにないようなことを言ってしまったことを少し恥じた。彼は、過去の仕事で性暴力被害を受けた女性の講演の内容を思い出していた。四十歳を超えた女性は、二十数年前の被害を最近になってやっと語ることができるようになったと話した。生々しいことに、彼女は暴力の最中、抵抗ができない中で、早く終わりますように、体をこれ以上傷つけられませんようにと、ひたすら願っていたと語っていた。

 「その祈りは、苦痛に満ちたものですか?それとも成就する希望に包まれた祈りですか?」

 「そうね、どちらでもあると思う。普段母親としてのことを全うできていないという苦痛もあるけれど、唯一自分の子供のためにできる祈りをしているという気持ちと。最中は本当に神聖な気持ちになるのよ。道端のお地蔵さんみたいに、じっとして思慮深く他者を思う心地になる。世の中の普通のお母さんたちって、こういう気持ちを子育ての中で感じているんだろうなって思ったりする。」

 「そうなんですね。」

彼は両手で持っていたスマホをいったん膝の上におろして置き、送られてくるメッセージを目だけで追った。

 「その最中は一番母親になれるの。一番子供に近づけるの。でも実際に行為が終わって子供が実態を持って近づいてくるとダメなのよね。」

 やはり作り話かもしれなかった。作り話を彼に向かって仕掛けてきた女性だと思って処理することもできた。

 「たぶん私たちの親子はもうだめだと思います。」

 彼は自分の目と鼻の先にあることなのに、窺い知れない大きさの空間と時間が口を開けていたような気味の悪さと、そしてそのことに何とは無しに気づいた今も、それを眼の前にしたときに、門を押し開くようなことは到底できないだろうなという深い疎外感を感じていた。