原因不明に発生する不可思議な選択に対する応答

我々には酸素を含んだ空気が必要であるということができる。必要だと〈言うこと〉が難しいということはもう何度も言われてきた。必要だと言ったとしても酸素を含んだ空気が馴染んで肺に飛び込んでくれるかは、空気次第だと、あるとき気づいて今はそれがパワーゲームのようになってしまっているのだと嘆く専門家がいることをラジオの放送で知ったが、すぐに異国の電波が入り込んでしまうような脆弱な波での放送だった。

 

人の家には庭がついていたりするが、もう近頃はその庭に日の光が入るかどうかが言い争いの種だ。「暖かい」、「寒い」、「乾く」、「お花」、「うちの」、というどなり声が公害問題なのだ。「空塔」というのを当時優秀と言われていた王様が国のものとして建てて、「では」ということで民間の企業が争って塔を建てていったので、どなり声の公害が起きたのだ。その庭の中で、特に寒暖差がある庭にある男が寝転がっていた。それは首都高の近くだったので、男はお堀と今のない交ぜになった様を大層毎日きみ悪がっていた。

 

今まさにやってきてはきみ悪がっていると、空気の方が考え方を変えた。男の体には空気があまり入らなくなった。かなり超然としていた。空気が「パルスオキシメーター」を投げてよこしても、はだしの足で蹴ってどこかにやってしまった。「パルスオキシメーター」を足で蹴るときに、はだしの足の指にはまってしまいそうで、それは危なかった。最後のきみ悪さを心の中で転がしているのだ。

 

そこに空気銃を持った子供がやってくる。その日は冷えた庭だった。冷えた庭に子供が空気銃を持ってやってきたのだ。(冷えた庭というとすぐに露のことをいう人がいるが、そういうことではない。そういうイメージが排されるほどの状況であることがわかってほしいと思う。時間がないのだ。)

 

男の頭の中ではもう振り返りの時間になっていて、それはそれは思い出の詰まった頭になっていた。ここに書くことができない、とても素晴らしい思い出だった。一般的に価値があると言われるものや、ないと言われることがたくさん去来して、存在の神秘が体から横溢していたのだ。事切れるドラマが美しく改変されていく感じ(あの感じ、悪い冗談)とは違う。それは本当にそのようにいうことができた。

 

そのような大変に充実した全き体に対して、空気だけが逆に働きかけていた。送らなければ死ぬ。男がそれを欲しいというのもなかなかシチュエーションとしてそうはなりにくいものだった。彼の背中にはお堀と(江戸の)今のスパンの時間が肩に乗って重く乗っていたのだろうと思う。容易ではない。時間を背負うこと。

 

空気銃があり、空気というものが何らかの自然に従って流れるという観念事実(観念が事実になるということ)があり、その二つがあるときに空気銃は自然を破壊して自然になることのできる便利道具(いかなる深刻重大道具もただの便利道具)だ。周囲の空気が鋭く自分に向かってくることも、自然の範疇であった。しかしその類の自然を壊しても有り余る程の自然というものがある。それは信じるに足るものだということをここでしっかりといっておきたい。

 

空気銃の子供と庭の男の話に戻る。

子供は何と言っても空気銃を持っていたので、それを男に向かって射撃することができた。(この根も葉もなさが全てなのだ)のでそうするのだ。(それは命だ)

 

弾はまず男の肩口を破壊する。これはそうしなければいけないこととして。失敗としてだ。2弾目からは男の体の中枢部を(心臓や肺、肝臓などの大切そうなもの、常に相対的、の集まっていそうな部分)命中した。男は体に命中するたびに、そういうことかという気持ちを深めていった。それは自然から遠ざかり、自然に近づくことだった。やはり持続的に命中し続けることだ。持続的というのは時間のことだ。時間が降り積もるのだ。

 

随分と男が納得したころになると中枢部のほとんどがガチャガチャになっていた。それは見事な赤い鮮血だ。十分であるということだ。世界的に大変十分であるということなのだ。生きていてよかった、これからも生きよう。続かないのだ。続かない、とは時間のことだ。それを言えてよかった。子供もそれを聞いている。2人は2人が違う自然にいて同じ存在であるということを理解はしていないが、そのようなことが言葉としてお互いの口から表明された。