【映画評】「17歳の瞳に映る世界」-絶望を適切に描き切るという希望-

違和感のある評

渋谷で一回目の視聴を終えて、あらゆる角度からの暴力を粘り強く丁寧に描ききった傑作だと思った。幕が下りたあと、画面全体に漂っていた濃厚なブルーのイメージと相まって、抵抗できない暴力にさらされた後に訪れる様な、諦めも混じった静かな絶望に浸っていた。あまりにも逃げ場がないので、それはほとんど生まれてきてしまったことに対する呪詛の様な絶望だった。

しかし映画が終わって外に出ると、エレベーターに乗り込む前のスペースに雑誌に掲載された様々な評の切り抜きが掲示されていたのだが、そのどれもが私の感じたものとは微妙にズレていたのが気になった。例えば、「二人きりで世界に立ち向かう」という文句や、終盤のカウンセラーとの場面を「その実直なやりとりを見るうち、私たちが知らずに抱いていた恐怖心や後ろめたさが徐々に払拭されていく」というようなものだ。こういった見方はオータムが自分の意思に基づいて人工妊娠中絶をするということをある種のゴールとして捉えているように思えてならなかった。現在の人工妊娠中絶を巡る米国内での苛烈な状況を見ればそういった見方が出てくることもあるのだろうが、オータムやスカイラーの心情の機微をイデオロギー対立の合間に落としてしまってはいないだろうか。一体彼女は逆風吹き荒れる中リプロダクティブヘルス・ライツを行使してゴールに達したのだろうか。ラストシーンの帰りのバスの笑顔をどう受け止めれば良いのだろうか。あの笑顔は無事に中絶が終わり、自宅に帰る安心感の発露として、単純に見ることはできるだろうか。

 

作為のあるカメラワーク

 この作品を読み解くカギとして、映画の特徴的なカメラワークをあげたい。多用されるのはとても印象的な手持ちのカメラだ。そしてサイズはかなりタイトで、オータムやスカイラーの顔にぐっと寄った映像が続く。手持ちによる心地の良い揺れ感と、彼女らの表情にぐっと寄ることで、全体的にかなり主観的な印象を与え、まるで自分もオータムとスカイラーの世界に存在しているかのような没入感を演出している。全てのシーンの9割5分以上がこの手持ちカメラを使った映像になっていたように記憶する。

 さて、そんな映画のほとんどの時間を占める手持ちカメラだが、あるシーンでは唐突に三脚を使った映像になっていることに気付いた。それはこの映画を見た多くの人が印象的だったと感じたであろう、オータムが中絶を求めてやってきたニューヨークの病院で、中絶を受ける前にカウンセリングを受けるシーンだ。それまでずっと手持ちカメラを使ってきたのに、ここで突如足つきの映像が選択されたというのは、ある明確な意志の元にこういった選択がなされたと解釈するのが自然だろう。

 

最高潮に達する緊張感の中、何が起きていたか

 この評のはじめに「あらゆる角度からの暴力」と書いた。頭から終わりまでオータムとスカイラーは常に様々な暴力にさらされ続けている。物語が始まる前にあったであろうレイプ、学園祭ライブでの男子学生からの暴言、バイト先の店長からのセクシャルハラスメント・・・全てを上げようと思えば切りがないほど、ひっきりなしに何かの暴力が代わる代わる彼女たちを襲っていく。それはおそらく経験したことのないものにとって、ほとんどリアリティを感じられない脚本ですらあるかもしれない。

 

 しかしこの二人に対する暴力は、単に彼女らを性的対象として見る人間たちだけからのものではない。そしてむしろ、最も緊張感が高い暴力性が発揮されるように見えるシーンは、一見オータムの苦境が好転していく様に見えるきっかけ、カウンセラーからの質問を受けるシーンだと私は思うのだ。

 そのシーンで突如現れるのが、先述した三脚を使ったスタティックにオータムとスカイラーを映した映像だ。それまでカメラの息遣いが伝わるようなシーンが続いていたからこそ、一層冷たい印象を抱く。客観的なのだ。客体として、まなざされるオータムが強調されている。

 更にカメラワークを詳細に追っていこう。カウンセラーとオータムが会話を始めたころ、生年月日や生活態度など基本事項についてのやり取りがなされ、カウンセラーの顔とオータムの顔が話のタイミングによって交互にスイッチされていた。しかし、話が本題の性暴力に近づくにつれ、スイッチの頻度は少なくなり、最終的にオータムが涙を流すシーンは、オータムのみを映し続ける非常に長いワンカットで表現されるのだ。ここに厳しく「まなざす」という暴力性が発揮されていることは同意してもらえるだろうか。そしてカメラが写している映像を、まさに我々がまなざすという構造を通して、その加害性は我々に仮構されていて、そのことが我々に強い緊張感を強いる。この映画で最も強烈に印象的なシーンだと言って良い。

 実際の二人のやり取りを見てみよう。このカウンセリングの最も重要な部分、性暴力の有無を確認するにあたっては、「never, reraly, sometimes, always」という四択での質問が採用されている。オータムはその質問に答えることに非常に苦しみ、涙を流しながら、四択からではなく一言「Yes」と答えている。

 このやりとりを分析するに当たって、まず心の傷、トラウマというものがどういう性質のものかを考えてみたい。精神科医であり社会学者である宮地尚子氏の「震災トラウマと復興ストレス」では、トラウマ反応として侵入、回避、過覚醒の三つがあげられている。そのうち侵入の説明をみると、「侵入(再体験)は、トラウマとなった出来事が今まさに起きているように感じ、そのときの身体感覚がよみがえる(フラッシュバック)、怖い夢を繰り返し見るといったことです。症状によって被災し続けている状態ともいえます。」とある。

 もし仮にオータムがトラウマ症状を呈していたとするならば、「被災し続けている状態」であった可能性がある。つまり、自分の体験した性被害に関して、時系列の整理が取れていないということだ。オータムにとっては、望まない性行為と望まない妊娠があったという事実とその傷のみばかりが彼女の内側を占めていて、その頻度を答えること-つまりそれは時間の数直線に、被害の点をプロットしていく作業であるはずだが-は不可能なことだったと考えることはできないだろうか。オータムの内的な時系列の混乱に、暴力的に闖入してきた4つの頻度を問う質問に対して、オータムはただ「yes」と答えることしかできなかった。やり取りとしてもオータムを厳しく追い詰める場面に、カメラの技術的なオペレーションも相まって、見るものにとって壮絶なシーンができあがっているように思えた。

 

絶望を適切に描き切ることの希望

 念押しをしておきたいのだが、カウンセリングを否定したいという事では断じてない。精神医学の現場でも治療の一環として、患者が悲しみを正確に咀嚼し直すことが必要なのだろう。私が言いたいのは、この映画が「あらゆる角度からの暴力を描いた」という事だ。

オータムが適切な処置を受けるはずの安全な場ですら、彼女は涙を流さなければいけないのだ。性暴力を受け、傷口が開いた彼女には、周囲の多くのものが鋭く向かってくる。その残虐さを余すところなく正確に、この映画は捉えている。そしてこの映画を通して、性暴力の苦しみや、やるせなさを正確に知った我々は、より深く性暴力を憎むことができる。

 巨悪に対して、浅はかな希望など必要あるだろうか。もし現状その巨悪をきれいさっぱりなくすことができないのなら、その巨悪の有様を正確に、余すことなく写し取ることだ。残虐さを心の底から悲しむことだ。そのどん底からこそ、悪に対抗するための力が湧くはずだ。この映画に浅はかな希望はない。粘り強く性暴力の持つ残虐さを描ききった。彼女たちが安心して眠る帰りのバスのチケットですら、スカイラーの性的搾取によってもたらされたものなのだ。